改めて学びたい日本の武士道精神(サムライスピリット)とは?
24年3月19日(火)配信: 宿曜占い|辛口
画像:fs-astrology-members.com
日本の武士道精神(サムライスピリット)や仏教、禅など2010年あたりから海外からの注目度・関心度が非常に高く、日本の一つの魅力となっている。しかしなぜ武士道精神なのか?現代を生きる日本国民の目からは武士道精神・サムライという言葉に堅苦しさ、気難しさを感じるのではないだろうか。今回は、そんな武士道精神の世界を西洋・欧米文化と比較しながら紐解いていきたい。
武士道精神の基本解釈について
まず武士道精神とは武士を意味する言葉ではありません。自分自身の心と向き合う強さを表す事であり、他者を力ずくで圧倒することではありません。これは日本の美学にあり、心の姿勢を表す道徳心にあります。
この精神は、仁、義、礼、智、信、忠、誠の7つの姿勢に基づいており、サムライだけなく一般の男性、女性、子供にも万人に与えられる精神であり、この精神の中で人を区別・差別する事はない。
西洋では外界に対して、美しさをアピールするのに対して、日本の武士道精神・美は、自己規律の精神であり、内面の美しさを表しています。
まず武士道精神を形成する7つ基礎(姿勢)が以下になります。
「仁」情けを表し、たとえ敵でも相手に情けをかける。
「義」フェアプレイを表し、たとえ勝負に勝っても不正行為で勝ちえた勝利は賞賛されない。
「礼」他人に対する思いやりを表し、相手に見える形で表す。
「智」物事の本質を見極め、常に切磋琢磨し、より良い手法を得ようとする心得。
「信」信じる強さ・信頼を表し、本来の日本では契約という概念なくしても口約束で十分事足りる。
「忠」愛する者への自発的忠誠心を表し、これは強制されるものではない。尊敬していない上司、主に服従、愛する行為を忠とは言わない。したがって尊敬していない者、愛してしない者への忠誠心は存在しえない。
「誠」言+成=言った事を成す。とした意味があり、一度でも口にした事は命がけで守り、守れなければ死をもって償う。すなわち「信」が成り立つのは、「誠」あっての事。
このように武士道精神とは、人が人として美しく生きる姿勢にあり、自己規律と自立を促す基礎であると言えます。
サムライの基本となる武士道精神とは人が人として生きる道を説いています。
よって無用な殺生はせず、よほどの状況にならなければ刀は抜きません。
ただ刀を持っているだけで真のサムライとは呼べないのです。
平安時代前後の日本文化では、現代(とくに明治維新以降)よりも男、女、子供、階級、年齢、に関係なく平等に礼儀を尽くす精神が存在していました。会社の語源は神社であり、古き時代の会社とは神社あたる。そこには巫女を含め男女が分け隔てなく働いている風景が当たり前のように存在していました。ゆえに神主の性別に決まりはありません、女性の方が繁栄すると喜ばれる神社もあったほどです。
また女性武将なども差別された存在ではなく社会の中で認められた存在でありました。これは生き様・生き方は性別ではなく個人の判断によってなされるものだ、というダイバージェントに近い思想があったのです。LGTBに対する見方も寛容な時代で化粧をする男性も珍しくなく、今から見るとかなり先進的な思想・思考です。現在行われている「男女共同参画社会」とした政策は、元々日本に存在していた価値観なのかもしれません。
紳士・レディーと区別した関係性ではありません。
西洋文化への憧れ
明治頃からはレディーファーストにおける日本の価値観も変わりました。
人に優しくすること。ボランティア精神や、重いものを持ってあげたり、恋のキューピット役を演じたり、サプライズなどの行為は、人を幸せにするため・喜ばせるために想像力を働かせることが原動力になっています。
それは奉仕の精神であるクリスチャンの精神から来ている。外国人男性から優しくされたことをレディーファーストと捉えるのは現代日本人的発想であり、言葉だけが一人歩きしています。レディーファーストは距離の近い男女の間で行われる儀式的な行為に近い。欧州、欧米の都市部ではLGTBの問題もあり死語に近い文化でもある。それは男女を線引きしているからです。この点においては海外から日本が学ぶという状況になっておりますね。また、一方が優遇される構造は一方の幸せしか生まれません。レディーファースト(女性第一主義)とはファーストという文字通り階級思想に近いのです。
しかし、クリスチャンの精神に男女の隔たりはありません。
日本はグローバルな時代の中で「西洋文化・欧米文化」に大きく影響を受けてきました。
明治以降、男尊女卑が強く日本に反映されたのは、階級社会からくる西洋文化、欧米文化を日本人が誤った角度から取り入れた為であると考える。
これは男性だけでなく、女性も大きく誤認しており、互いにその間違いに苦しめられながら現代にいたります。
明治以前の日本にも西洋のような階級社会が存在していた時代がありましたが、そんな社会の中で、人を階級で区別、差別する事への反発心から武士道精神が生まれたとも言われています。
西洋にも相手に敬意を表す行為として一部、お辞儀する習慣があるが、これは貴族間で振る舞う行為となる。あくまでも貴族間の儀式的な習慣であり、民間レベルで浸透していません。西洋のお辞儀と日本のお辞儀では意味合いが違うのです。
たとえホームレスでも礼を尽くし、困っているなら情けをかける。それが真のサムライであり武士道精神なのです。
だが…なぜホームレスに礼をする必要があるのか?と考える人もいるだろう。
それはホームレスも社会の歯車の一部であり、自分が今ここに存在し、生きている事は、周囲全ての人々が存在してこそ今の自分が成り立っていると考えているからであり、生ある全ての者に礼を尽くす事は生きている事への感謝の意味もあります。
食に関しても武士道精神は影響しています
西洋にも食事の前に神に祈りを捧げる習慣が一部残っているが、日本の食事では神のみでなく命を頂く動植物に対して礼をする精神となる。それは全ての動植物に神が宿ると考えるからであり、それが「いただきます」という言葉に込められている。
彼らの命を頂き次の糧とする。同じ命である以上、人間も動物も植物も対等という考えからだ。
西洋では動物を種で分類し階級を設けている。だからこそ日本の捕鯨に対し警告を発している。
しかし、捕鯨に関して日本国内で日本人によるデモはほとんどありません。むろん絶滅危惧種であれば問題だが、そうでなくとも哺乳類だからという理由で「他の命と差別すること」「命に階級設けること」は、日本的思想ではありません。
桜の花びら一つ一つに命が宿る、これが日本の命に対する美意識といえるでしょう。
また、将棋とチェスにも大きな違いがある。チェスでは白と黒に分けられており、敵か味方か、善か悪か、という解釈から成り立っているが、日本の将棋では敵の駒を取れば、自らの駒として使う事ができる。
日本の道徳心では、善か悪か、という解釈ではなく、たとえ対峙する者でも同じ命である以上、その命を無碍に奪うよりも生かすことを考えます。
このことから命に対する根本的な考え方が違うのです。
料理に関しても魚の頭から大根の葉まで無駄なく使うのが日本料理の基本です。
食べ物を残さず食べるということは「もったいない」という人間側(欲)の解釈ではなく、他者(命)に対する思いやりから生まれています。残すことは奪った命を無碍に扱うことになるからです。
一つの命を奪う時、その全てを生かすことがその命に対する最大の敬意といえるでしょう。
豪華絢爛ではなく、命を美しく彩ることが日本の美なのです。
武士道精神は、成文化された書物があるわけでもないのに、何百年に渡って日本人のDNAに受け継がれてきました。
しかしながらここ近年、日本文化は様々な国の文化から強い影響を受けており、武士道精神を語れる日本人は極少数となっています。
過去50年、世界のグローバルな波について行こうとする日本の姿は正しかったのだろうか?武士道精神は、そんな現代の日本が抱える様々な問題を正しい方向へ導いてくれるかもしれない。
そしてなぜ世界が武士道精神を尊敬するのか…?それは彼らの世界がそれとは真反対の基礎から作られた環境にあるからです。
日本の善と悪
日本では、性善説でもなく性悪説でもなく、善悪は誰しも持ち合わせているという前提に立ち、境界線を引かない「和」の精神が育まれてきました。それが日本文化の奥深さであると同時に、わかりずらさでもあります。
誰しも悪に陥る可能性を秘めており、自分の立ち位置、相手の立ち位置、自分の大儀、相手の大儀によっては善と悪の捉え方は大きく変わります。
この真理を突き詰めていくと境界線を引くことに何の意味もないことに気が付くのです。
これは罪を良しとするものではなく、境界線を引くことはさらに悪を増幅させているだけであり、また境界線を引いた側も別の形で境界線を引かれることになり、この負の連鎖は止まることはありません。そこから希望や光が生まれることはないのです。
故に日本では宗教戦争は一度も起きておりません。複数の宗教・宗派が乱立しても争うことなく一つの社会の中で共存してゆきました。
ゼロの地点で物事を見る。これこそが世界を平和へ導ける真の日本の姿とも言えます。
この考えを掘り下げてゆくと、日本は「個」を大事にする文化だからこそ、争いが産まれない環境を目指し続けてきと見ます。「個」を大事にするとは相手のフィールド(領域)を侵さないことにあります。
相手のフィールドを守るからこそ、自身のフィールドも守られる。これは境界線という線引きではなく、相手のプライバシーに侵入しないという配慮になります。ハグでも握手でもなくお辞儀という距離感が日本らしいと言えるかもしれません。この点は外国の方にはとても理解が難しいかもしれません。そして今現在、日本人が忘れてしまった美徳とも言えます。
過去に日本は何度も他国から人を受け入れ、この教えを説き共存してきました。
世界から完全に争いが無くなることはありませんが、私たち日本人だからこそできることがあるのではないだろうか。何か言葉や体現で説き伏せることができるのではないだろうか、近年の社会情勢を見てそのように思います。
日本の発展と衰退
高度経済成長期を軸に考えれば明治以降、西洋から影響を受けた軍国主義と西洋文明が第二次世界大戦という戦でリセットされ社会主義に立ち返るきっかけとなりました。そこから高度経済成長期の礎を築き日本は大きく発展してゆきますが、これは「社会主義では経済発展しない」という世界の常識を覆す形となりました。
そしてバブル期へ向かうにつれ再び社会主義から脱却し貴族意識・ブランド意識の高まり・子供のブランド化・超学歴競争など西洋の階級思想に加えアメリカから来る資本主義思想へと邁進して参りました。
どのようにしてバブルが崩壊したのかは問題ではありません。膨らみすぎた風船は遅かれ早かれ散るものです。
社会が成長する中で、どのような文明を作り、何を残したのか、得た経験は何か、それが大事なのです。
今後日本が西洋・欧米文化文明を真似るには表面だけの物真似では逆に悪循環となってしまうでしょう。それは「失われた30年」を振り返ればわかることではないでしょうか。
今、日本国内で行われている義務教育の設計は明治以降に西洋から持ち込まれた形式を現在も続けております。
何の意味があるかもわからない複数の科目をただ純粋に記憶する能力は、軍隊にとって非常に都合の良い存在です。余計な詮索はせず組織の命令を指示通り遂行できる優秀な兵隊になるでしょう。そこに偏差値という競争原理を取り入れ、さらに子供達をふるいにかけます。
このシステムを優秀な成績でのし上がって来た子供たちが、今でいうエリート層でございます。ですがあくまでもこのシステムの中で優秀であるということに過ぎません。
この現実から何を学び、これからの私たち・子供たちはどのような日本を作り上げてゆくのでしょうか。しかし現代を生きる大人たちもこの制度・教育の中で育ってきた方々が大半だと思います。故に否定することも難しいでしょう。しかしながらこのままで良いという考えの方は少ないのではないでしょうか。
日本の武士道精神、禅、道徳心は、今多くの国々で注目を集めているが、その日本文化を語れる日本人が少ないのも事実。
自国の文化を語れない者多きなか、そのスピリットは残っていくだろうか。
そして最後に、武士道精神とは伝統を重んじることではありません。日々切磋琢磨してゆくこと、人としてどうあるべきかを説いているのです。
このシンプルな教えがいつの日かあなたの助けになることを願っております。皆様の考える武士道精神のイメージと同じでしたでしょうか。長文お読みいただきありがとうございました。