◆宿曜占星術の歴史と起源
宿曜占星術とは、インド占星術をベースにした日本の占星術。
正確には『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』(もんじゅしりぼさつきゅうしょせんしょせつきっきょうじじつぜんあくすくようきょう)といいます。
個人の性格占い・能力・社会性だけでなく、対人関係の相性占いと、日々の運勢占いで威力を発揮する占いです。
太陽の運行を中心にした西洋占星術が、人の表層、全体的な運勢の流れを観るのに対し、宿曜占星術はより内面的・感情的な運勢を観ていく占星術だと言われています。
太陽の運行を中心として黄道12宮を配する西洋占星術と、月の運行(白道)を中心として、宿曜12宮(太陰太陽暦)を配する宿曜占星術は対照的なものとなっています。宿曜占星術は月の運行をもとにした占いです。
しかし、運勢を見る際には月の運行から見る「三九の秘法」と天体を元に算出する「九曜流年法」も合わさっております。
そのため宿曜占星術は「ギリシャ由来の西洋占星術とインド古来の月占星術が習合し独自に発展したもの」という解釈もございます。
一説には宿曜占星術の元であるインド占星術はバビロニア辺りで用いられていたものであり、バビロニアから東はインドに伝わりインド占星術になり、西は西洋に伝わって西洋占星術になった。そしてインドのオリジナル占星術として、インド占星術というものが生まれます。このインド占星術を中国に不空三蔵という僧侶が中国に伝えていきます。不空三蔵がインド占星術を「宿曜経」として総括し完成させたのが764年の唐の時代です。そしてインドから中国を経て日本に伝わり独自の進化をしたものが宿曜占星術とされます。
上記を考察しますと、「太陽の運行を中心にした西洋占星術」も「月の運行を中心にしたインド占星術」も元は一つの占星術であったと考えるのが的確かもしれません。
◆日本における発展◆
「宿曜占星術」の歴史は古く、約3000年前、文殊菩薩とリシたちが、27宿や12宮、七曜などの天体の動きや曜日、日や方角等の巡りをもとに、インド占星術の経典として上下二巻にまとめたものです。
その経典を翻訳し、西暦803年に日本にもたらしたのが弘法大師の空海です。
さらに空海がもたらしたこの経典を、密教徒たちが独自に研究、発展させた結果、完成したのが「宿曜占星術」というわけです。
また道教の概念も取り入れられており、宿曜経そのものは唐で完成したのではないかと言われています。
※ただ、宿曜にまつわる歴史の解釈は様々なあり、密教占星術というだけあり明らかになっていない歴史もございます。
当時、すでにあった陰陽道の陰陽師と勢力を二分していました。
この頃、政治の判断基準として重宝されていた、 陰陽師の『陰陽道』と人気を二分するまでになり、 『宿曜道』と呼ばれることもあり、社会的地位を確立していきました。
あの織田信長も宿曜道を天下取りに活用していたが、そのあまりの的中率の高さに江戸時代、 徳川幕府は宿曜占星術を封印してしまいました。
織田信長は「宿曜道」を戦に用いたことにより、戦国の覇王となり、後に徳川が天下を統一し、300年にも及ぶ磐石な徳川幕府を築けたのも、徳川幕府が公の場では「宿曜道」を禁じ、密かに活用していたからだとも言われています。
空海が持ち帰って以降、江戸時代に入るまで日本で長く利用されてきたのですが、徳川幕府の禁じもあり、戦国時代の頃に宿曜術は一度全滅しています。その為、正式な口伝伝承者が途切れてしまっているのです。その後、再編が行われ、編成し直しているという経緯があります。
時が経ち、明治以降に再び宿曜占星術は見直され、現在に至ります。
しかし、現在でも宿曜占星術を伝えている寺院では、いまだに秘密扱いしているところも多く、そこで用いられる占盤は、「宿曜占星術」の看板を掲げている一般の占い師と比べると、非常に複雑です。
仏教学の側からの研究も限られており、資料も数えるほどしかないのが現状であります。